法話の窓

「別れるからこそ」

卒業のシーズンがやってきました。長年勤めた職場を離れる人、第一線から退く人、学び舎を巣立つ人、それぞれ胸中に去来する思いがあるでしょう。たくさんの思い出が詰まった場所や、気心の知れた仲間と離れ離れになるのは、何度経験しても寂しいものです。
ただし、幸いにもこれらの別れは予期することができます。カレンダーを捲りながら来月、いよいよ来週、ついに明日が別れの日――と覚悟を決める時間があります。
ところが、人生における究極の別れ、つまり「死」は誰にも予期することができません。明日の天気はほぼ100%予測できるようになった人類ですが、医学が発達した今日でさえも、自分や大切な人がいつこの世を去るのかは未だにわかりません。そしてそのことを、12年前の大震災や、ここ数年に渡る感染症の爆発的流行、昨年から続く悲惨な戦争を見てきた私たちは、皆誰しもが知っています。
今ここにお互い命あるのは、有り難く尊いこと――だからこそ、改めて『一期一会(この出会いが一生に一度きりのものだと思って接すること)』の心で過ごさねばならないと感じます。

今から数十年前のある朝、1人の女性が家に帰る為、バスに乗ろうと駅にやってきました。ところが、乗るつもりでいた時刻のバスは生憎の満席で、運転手に「次の便に乗ってください」と言われます。仕方が無いので次の便を待とうと思っていたところ、そのバスから女性が1人降りてきました。どうやら先程のやりとりを聞いていたようで「待ち合わせている人が来ないので、あとの便に乗ります。どうぞ代わりに乗ってください。」と席を譲ってくれたのです。突然の有難い申し出に戸惑いつつも、丁寧にお礼を言って、予定通りそのバスに乗って家に帰ることができました。
席を譲ってくれたその優しい女性ですが、その後どうなったのかは分かりません。というのも、その日は1945年8月6日。その駅は広島市の横川駅。爆心地から1.8kmの地点です。そして席を譲ってもらい、朝6時30分発のバスに乗って難を逃れた女性が、私の曾祖母でした。

まさしく文字通りの、一期一会ではないでしょうか。私たちにもいずれ必ずやって来る別れ、最期を予期できないからこそ、もう2度と訪れない「今ここ」との出会いを大切に、毎日を送りたいものです。

柳樂一道

 

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