法話の窓

心涼しき夏の思い出

七月に入り、梅雨が明けるといよいよ夏本番。日中の蒸し暑さや強い日差しも、夕方になると幾分かは和らいで、吹き抜ける風を心地よく感じられる季節がやってきます。
 大学時代の夏休み、私は、子供たちをキャンプに連れて行くボランティアに初めて参加しました。湖のほとりまで数キロの道のりを歩いていき、林の中でテントを張ろうとした時のことです。テントは、ロープで引っ張り、ペグ(引っかかりのついた杭)を地面に打って固定するのですが、荷物のどこを探してもペグが見当たりません。
 私は「引き返すには3時間もかかる。子供たちがいるのに、どうすればいいのだろう」と、あれやこれや考えました。そして、「ペグを忘れてしまったようです」と、先輩のリーダーに声をかけました。すると先輩は笑って言いました。「最初から持ってきていませんよ。その辺に落ちている木の枝を拾ってきて、ロープを巻きつけて地面に刺せばいいのだから」と答えたのです。
 肩を押されるように、子供たちと木の枝を夢中で探しました。テントを張るのに適した形状と堅さの枝を見つけると、宝物を発見したように心が弾みます。自分の力でテントを張り終えた子供たちはとても誇らしげで、私もそれを見て嬉しくなりました。気付けば汗だくでくたくた、すっかり日が暮れていました。ほっとひと息ついた時、労をねぎらうように、爽やかな風が私たちの体を撫でていったのです。キャンプで感じたこの風の涼しさは、今も忘れることはありません。

 禅語には、

  心静かなれば即(すなわ)ち身も涼し

                 (白居易)

 (心が静かであれば、自ずから身体も涼しくなる。)

 

とあります。これは、心身がひとつになった境地であります。身も心も軽く、静かで落ち着いていなければ、かすかな涼しさを感じる余裕がなくなってしまうでしょう。今では、エアコンのリモコンを手に取れば、一瞬にして涼をとることができます。昨今の命にかかわるような暑さの中で、それを捨てるわけにはいきません。しかし時として、便利なものに頼らず、心に涼を感じるというのも大切なのではないでしょうか。

池田織隆

 

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