法話の窓

山河並大地全露法王身

〔山河並びに大地全く法王身を露わす〕

 私の住まいするみちのくの山寺は、太平洋岸とは言え、東北百景の七ツ森山麓に位置して雪深い。日本海からの風は山形県境を超え、船形颪(ふながたおろし)として吹きすさび、地吹雪をもたらす。夜中に降り積もった雪は膝上まで達する。朝日が当たり溶け出す前に、朝のお勤めを終え、雪掻きに取り掛からねばならぬ。純白の新雪は陽光に映えて、眩しいばかりに光り輝いている。本堂を突き抜けるかの樹齢四百余年の榧ノ木は、裏山の木々を背景に、一面銀世界の君主然として聳え立っている。自然の織り成す景観は、魂を鷲掴みにして離さぬ。どこを見ても摩訶不思議な絶妙のバランスと造形美に満ち溢れ、見るものを圧倒する。
 しかし一体何がこの全体宇宙をつかさどっているのか? 目に見えぬミクロの世界から、この我が身の生命体の小宇宙、地球、宇宙に至る森羅万象は、摩訶不思議な秩序を保ちつつ、ひとつの摂理を成している。
 普段私たちは、日常の瑣事に追われ、分単位、秒単位に切り刻まれて、やらねばならぬ外の事情に振り回され、浮足立っている。
 臨済録に「演若達多頭を失脚す(えんにゃだったこうべをしっきゃくす)」の逸話がある。昔、演若達多という美貌の青年が、毎日鏡を見て化粧をしておったが、ある日鏡を見ると頭がない! きっと寝ているうちに頭を盗られたに違いないと、街中に出て人々に聞いて回った。するとその尋ねているのが、お前の頭と口だと笑われた。手を頭にやると確かにある。その日の朝は、たまたま鏡の裏を見てうろたえていたそうな。
 「忙しい」とは、こころが亡(ほろ)ぶと書く。こころ此処になければ、目の前にあっても見えず、見ても見えぬ道理である。せわしない日常の一瞬、立ち止まって心静かに身辺のありさまを、ありのまま、そのままに眺め、受け入れることができれば、そこかしこに新鮮な驚きと不思議な感動が満ち溢れているに違いない。その生まれながらに身に備わった「気付く」力と、宇宙の摂理はいずれどこかで繋がっている。だからこそ、この眼前世界が絶え間なく、包み隠さず説き尽くしている姿に、人は心揺さぶられるのであろう。
 白隠禅師曰く「動中の工夫静中に勝ること百千億倍す(*注)」と心得て、心静かに雪掻きに専念する。

梅澤徹玄

*白隠禅師『遠羅天釜』
 

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