法話の窓
[ 2017年06月 今月の法話 ]

梅雨の日に想う

myoshin1706b.jpg ポツリ...ポツリ...
 梅雨に入り、今日も雨が降っています。
 先日ニュースを見ていると、お天気キャスターさんからこんな言葉が。
 「数日は天気が悪い日が続きそうです。じめじめして気分も憂鬱になりますが、皆さん健康にお過ごしください。」
 ここでは「雨=悪い天気、憂鬱の原因」と捉えられていて、どうもそれが世間の大方の人が持っているイメージのような気がします。しかしこれを聞き、私は少し違和感を覚えました。
 なぜかと言えば、私は昔から雨が好きだからです。雨の日には嫌いな体育の授業はなくなるし、お気に入りの傘はさせるし、何より雨が上がった後の澄んだ空気が心地よい。色んな考え方があると思いますが、皆さんはどうでしょうか?


 仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。「同じ水でも、4つの立場によってそれぞれ捉え方が異なる」という意味です。4つの立場というのは次の通り。


   人間にとって→無くてはならない飲み物
   魚にとって →自らの住みか
   天人にとって→歩くことができる水晶の床
   餓鬼にとって→飲もうとした瞬間火に変わる、苦しみの源


 このように、同じ水でも命の源になったり、苦しみの原因になったりするのです。この「一水四見」の意味をもう少し広げれば、「同じ物事でも、立場や見方が変われば違った景色が見えてくる」と解釈できるのではないでしょうか。
 先ほどの雨を例にとると、今から出かけようとしている人には「足元を悪くさせる障害」であり、時には洪水や土砂崩れなどを引き起こす「災害の原因」です。一方で、農業をしている人には「作物を育てる恵みの雨」にもなり得ますし、梅雨自体は夏を迎えるにあたって水を貯える準備期間ととらえることもできます。ですから、雨降りだからといって一概に「悪い」とも言えませんし、反対に「良い」とも言えません。私たちの身の回りにあるものや出来事は、見方一つ、心持ち一つで多様な姿を見せてくれます。
 禅では「良い⇔悪い」であるとか「美しい⇔醜い」などといった対立的な考え方を嫌います。世の中の事象はあるがままで変わらないはずなのに、私たちの心が「良い」とか「悪い」という区別をつけて、優劣や差別を図りたがる。その結果、迷いや苦しみの原因になり得るからです。
 古歌に、


   よしあしと 思う心を振り捨てて
           只何となく 住めば住吉


とあるように、価値判断を加えずに物事のあるがままの姿を観ていくことが安穏な生活につながっていくのだろうと思います。
 しかし「あるがままを観る」というのは難しいこともまた事実。ですから、その前段階として、「自分が良いと思っている行為は、実は誰かにとっての不利益かもしれない」「今辛いと思っていることも、実は幸福な側面が隠れているかもしれない」と少し視野を広げることで、私たちの身の回りの出来事がより豊かに見えてくるのではないでしょうか。


 ポツリ...ポツリ...
 今日も自然の赴くままに、雨が降っています。

野田晋明