法話の窓
[ 2016年12月 今月の法話 ]

年末の反省文

 今年も残すところあと僅か。思い返されるのは失敗ばかりです。色々な失敗がありました。思わぬことで人を怒らせてしまったこと。忘れ物は数知れず。この原稿も勘違いから締切りを過ぎてしまいました。挙げればきりがありません。坐禅をしていて何たることか、と歎きたくなる時もあります(人格を高めるために坐禅をしているわけではありませんが)。 
 しかしながら、近年そんな私を励ましてくれる言葉が世間には溢れています。
「あなたは、あなたのままで、そのままで良い」
「ありのままの自分でいよう」
 数年前には、歌詞もそのまま「ありの~ままの~♪」という歌が巷に流れておりました。「こんな失敗ばかりの私でも肯定してくれる」と確かに勇気づけられます。

myoshin1612a.jpg 臨済禅師をはじめ、禅の祖師たちの言葉は、修行者に向けてのものですが、日々の生活にも応用ができます。臨済禅師も、「自分で自分を信じ切れない自信不及(じしんふきゅう)から、悟りへ至らないのだ」と仰いました。ありのままの自分を信じ切れないからこそ、迷うのだと受けとることも可能でしょう。
 でも、「こんなに失敗ばかりの自分が、そのままで良いと言われても、変わらなくてよいのだろうか」と少し引っかかります。同じ「そのまま、ありのまま」であっても、「ありのままの自分を認めて」そこから前に進むことと、努力で変わることができるのに、「何もしないありのまま、自分を認めてもらおう」というただのワガママとは、大きな違いがあるでしょう。

 毎年この季節になると檀家様から大根をいただくことがあります。無農薬で丹精込めて作られた大根は、とてもおいしいです。しかし、「そのまま、ありのまま」一本丸々、生で食べることはありません。ふろふき大根、みそ汁の具、漬け物、大根の天ぷら......、「調理」という努力をして、より一層おいしい大根としていただきます。

 人間と大根は違いますが、努力は必要です。禅の教えでは、「努力しなくてよい」とは言いません。ありのままの自己を肯定する臨済禅師も、「かあさんが生んでくれたときから分かっていたのではない、身体をもって心を究明してある日、悟ったのである〔娘生下(じょうしょうげ)にして便(すなわ)ち会(え)するに不是(あらず)、還是(かえ)って体究練磨して一朝に、自ら省(さと)れり〕」と仰います。
 ありのままの自分を認めながらも、そこから何が出来るのか。今日より明日、今より一秒後、失敗ばかりの私ですが、来年からと言わず、今この時から謙虚に努力してまいります。どうぞ皆さまもご油断なきよう。

小川太龍