
中国は唐代、趙州禅師の語録『趙州録』に見える問答です。
〔ある僧が〕問うた「一日二十四時間、どのように心をはたらかせたらよいでしょうか」と。師〔の趙州〕が答えた「あんたは二十四時間に使われているが、わしは二十四時間を使いこなしている。〔そんなわしに〕あんたはどの時間のことを問うているんだ」と。
このように「仏とは何ものにもとらわれない自己そのものにほかならない」ことを日常生活に即して修行者自身に会得させようとする問答が、唐代をさかいに多くなってきます。趙州禅師のこの問答も例外ではありません。四六時中どのような場にあろうとも、常に自分を見失うことなく、時間にすら縛られずに平常心で居つづけられる禅師の生きかたが「二十四時間を使いこなしている」という答えにはっきりと現れているように感じられます。
さて、趙州禅師に問うた修行僧はさておき、私自身を振り返るとどうでしょうか。立てつづけに仕事が重なったりして時間に余裕がないときには「忙しい、忙しい」というのが口癖になり、イライラを増幅させています。挙げ句の果てには、まわりの人に当たってしまうことさえあります。どうやら私もまた、くだんの修行僧よろしく時間に振りまわされている人間のようです。ですが、一日が終わって「今日も忙しかったけど、心は穏やかに過ごせたかな」という日が皆さんにはありませんか。個人差はあれ、きっとそうした日もあるはずです。つまり、私たちの場合、時間に縛られることなく平常心で過ごしきれた日と、そうでない日というように、その日その日で斑(むら)があるわけです。斑を持たない禅師の日々と私たちの日々とでは、ここに大きな違いがあるのです。
では、こうした斑はどうすれば解消できるのでしょうか。同じく『趙州録』に、次のような問答が見られます。
〔ある僧が〕問うた「わたしが仏になろうとするなら、どうですか」と。師〔の趙州〕が答えた「大変なご苦労だな」と。〔僧がさらに〕尋ねた「苦労をしないということになるなら、どうですか」と。〔趙州が答えて言うには、〕「そうなら、もう仏になっている」と。
趙州禅師にみえる仏の境涯、すなわち、時間にすら拘束されない自在な心を体得するには、やはりそれ相当の苦労が必要で近道はないようです。しかし、だからといって二十四時間を使いこなすことが、私たちにとって不可能だというわけではありません。確かに、すぐにそうした自分になることは難しいことですが、そうありたいという心構えを持つことは可能でしょう。とすれば、どんなに忙しいときでも「平常心でありたい」とする日々の努力の積み重ねこそ、先ず私たちには必要とされているのではないでしょうか。
これから年の瀬を控え、毎日が慌ただしくなってきます。皆さんにとっても私にとっても、二十四時間を自在に使いこなせる自分を目指すチャンスかもしれません。
本多 道隆