
お寺によっては門の側に「葷酒(くんしゅ)山門(さんもん)に入るを許さず」と刻んだ戒壇石(かいだんせき)を見かけます。
戒壇石とは結界石(けっかいせき)とも言い、これより先は別の世界であるという意味です。別の世界というのはもちろん清浄な世界のことです。
私の住んでいる道樹寺では、夏休みになると子どもたちが蝉や虫を捕りに来ます。私はそういう子どもたちを叱ったことは一度もありません。私自身が子どもの頃、たくさんの虫や蛙、魚などを捕まえてきたからです。トンボや蝶などの羽根をむしったりして、多くの生命(いのち)を無造作に扱ってきました。近所には、お寺が二軒もあったものですから、お寺の境内で虫を捕り、和尚さんに叱られることは日常茶飯のことでした。
近年、虫を殺さない子どもたちが増えました。動物愛護や生命の教育が行き届いているのでしょう。幼稚園の子どもたちにインタビューしてもはっきりと賢い答えが返ってきます。
「すべての生命は大切です。殺してはいけません」。
反面、虫は殺せないけれど人間に対しては陰湿にいじめたり、簡単に殺してしまう子どもがいます。どうして、こんなに極端に分かれるのでしょうか。私は、頭だけで生命を理解しているからだと考えます。言葉を変えれば、生命のことを自分の身体で感じていないからです。生命は、頭で理解するものではありません。口は重宝なもので「すべての生命は大切です」と教えれば、三歳の子供でも鸚(おうむ)返しに言いますが、悲しいかな、生命そのものが解っていません。一度断たれた生命は、再び同じ姿に戻ることはありません。どのような科学を駆使しても、殺した生命と同じ生命は再生できないのです。
私は子どもたちに生命のことを知って欲しいから、境内で虫を捕まえても叱りません。今の子どもたちに、生命の尊さを知ってもらうには、虫たちの生命を断ってでも、身体でそのことを知ってもらいたいからです。虫にもお父さんやお母さんがいて、必死に子供を育てていることを知ってほしいからです。
昔のように悪戯(いたずら)小僧ばかりで、
「こらっ!境内で生き物を捕るんじゃない!」
と叱り飛ばすには、あまりにも優等生の子どもたちが育っているので「虫もわたしも同じ生命なんだ」と知って欲しいと願いつつ黙認しています。「殺生しなさい」などとは決して言いませんが、そういう犠牲があればこそ気が付くこともあるのです。
江口 潭渕