今月の法話

092 子供のような心を

 この夏休みの終わりに、地元の妙心寺派青年僧の主催で「一日禅寺入門」を開催いたしました。7歳から70歳まで、約30名の老若男女さまざまな方々にご参加いただきました。土曜日の昼に集合、日曜日の昼までの一泊二日の禅修行の体験でした。

 そのときに「おもしろいものだなあ」と、感じたことがありました。それは大人と子供の取り組み方の"違い"です。 

 大人の方は「普段の忙しさで見失っていた自分を見つめ直したい」とか「何か得るものがあるに違いない」といった心持ちで参加された方が多いようにお見受けいたしました。そのためか、最初の受付時に感じたのは、皆さんの緊張感です。それはきっと「真剣に臨む」お気持ちの現われであったことでしょう。

 ところが、子供たちは違います。まるで遊びにきているようなのです。それも一生懸命に遊んでいるという感じです。坐禅する真面目そうな顔、うどんをすするときの美味しそうな顔、長い廊下の雑巾がけでの楽しそうな姿。今、思い出してみても思わず笑みがこぼれてきます。このような子供たちの姿から「無心とはこういうものなのかなあ・・・」と考えさせられました。

 かの一休禅師の歌に、このようなものがあります。

    生まれ子がしだいしだいに知恵つきて

    仏にとおくなるぞ悲しき

 私たちは大人になるに従って、知恵という知識や才覚などを身につけます。社会生活を円滑にする上で、それは大切なことです。しかしながら、それらに縛られてしまったのでは、自由自在な境地を得ることができません。そこを「仏にとおくなる」と一休禅師は詠われたのだと思います。

 一休禅師の歌を、逆にとらえると「仏に近づく」ためには、幼い子供の心境に立ち戻っていけばよいということでしょうか。幼い子供のような心を取り戻していくことが、仏への近道に思えます。

 この子供のような心をもった歌人に若山牧水がいます。牧水は旅好きでした。次の歌はその旅路で詠ったものです。

    けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)し

    うち鳴しつつあくがれて行く

 「あくがれ」という言葉に注目したいと思います。漢字に変換しますと「憧」となります。これを分解すると「りっしんべん」に「童」(わらべ)となります。童の心、子供の心です。

 この歌を牧水は、実際の旅の途上で詠みましたが、私たちの人生もまた「旅」にたとえられます。私も人生という旅路にあって、子供のような心を取り戻していきたいと願います。

服部 雅昭