今月の法話

085 仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)

ガラスが

 すきとほるのは

 それはガラスの性質であって

 ガラスの働きではないが

 性質がそのまま働きになっているのは

 素晴らしいことだ

            高見順「ガラス」

 坐禅に励み、仏になろうとする弟子を見て瓦を磨きはじめる師匠がいた。それを見た弟子は「瓦をどれだけ磨こうと鏡にはなるまい」と意見する。師匠は瓦を磨く手を休めることなく「坐禅をしても仏にはならぬぞ」と忠告した。

 坐禅に励み、仏になろうとした馬祖道一禅師の所縁の地を尋ねて、中国の南昌へと飛んだ。着陸態勢に入った飛行機から臨めたのは、一面赤土の広大な農地だった。多彩な趣きを見せながら不規則に連なった田畑。農作業の労力はもっぱら、やせ細った牛たちであろう。この時期は農閑期なのだろうか、わずかとなってしまった田畑の草を、それでものんびりとむさぼる牛の姿が、赤土の大地に黒い点となっていた。南昌の景色にとけ込んで、あるがままを淡々と生きる牛は、とても幸せそうだ。ここに仏の姿があろう。

 翌朝、ホテルのレストランで朝食をとる。宿泊客は思いのほか多く、どのテーブルも満席状態だ。食後、おちついてあたりを見渡すと、何とも西欧の熟年夫婦の多いことに驚いた。そして、彼らのほとんどが真新しい乳母車に寝かされ、かわいいベビー服にくるまる赤ん坊を連れていた。熟年夫婦はとても幸せそうだ。乳母車から抱き寄せられた赤ん坊の顔だちは、東洋人だった。赤ん坊の両親は中国の人たちであろうか。無邪気な赤ん坊の笑顔を見ながら「幸せって何だろう」という葛藤が、心に一点の曇りとなって澱んだ。

 師匠は鏡を仏、瓦を凡夫と譬えたわけではない。瓦は瓦のままで既に充分。それぞれの性質が、そのまま働きとなって鏡も瓦も素晴らしい仏であることを諭そうとしたのである。高見順さんの詩にある「ガラス」を「仏」と読み替えると「仏」の性質そのままの働きができることは素晴らしいことなのだ。それは「仏の心」そのままに生きていくことであり、そこに禅の安心があった。その後、馬祖道一禅師は「仏の心」の教えを説くに至る。

 ガラスが性質のままに、いつでもどこでも常に透きとおっていられるために、日頃からの手入れをおろそかにはできない。だから私も日々に仏作仏行。私も仏ならば、仏としての生き方をしていきたい。と、赤ん坊の無邪気な笑顔に気づかされる。

足立 宜了