
私が住職に就任してから早くも、23年の月日が流れました。就任後、一つの疑問が、頭の片隅から消えまることはありませんでした。それは、『なぜ、僧侶になったのか』という自分への問いかけでした。
先住職が早くに他界したため止む終えずなったのか、または周囲の期待に押されたのか...等々。これといって納得のいく答えが見つけ出せないまま時だけが過ぎていきます。
二人の息子が小学校3年生と1年生になったとき、はじめてお盆のお施餓鬼の法要に出席させたときのことです。衣姿の二人を導師である私の両脇に座らせていました。焼香になると檀家の皆さんは私ではなく衣姿の二人に手を合わせて深々と頭までさげて下さっている。その瞬間、長年の疑問が一気に解けていきます。
『ああそうだ。これだったんだ。』そういえば...、私が中学生のときはじめて衣を着てお施餓鬼の法要に出て、へたくそな木魚を叩いたことがありました。まるで馬にでも乗ってるかのように。全身汗まみれでした。しばらくして汗を拭っていると涼しげな風がどこからか吹いてくる。辺りを見渡すと三人のおばあちゃんが手にしている扇子やうちわで扇いでくれている。
修行道場に入門する朝、出発を大勢の人々に見送っていただきました。いざ出発のとき一人のおばあちゃんが近寄ってきて手を握りながらこういわれました。『ここは決して裕福なお寺じゃないが、何とか修行を終えて、このワシに引導を渡してくれよ』と...。
そうでした。私はとんでもない恩と教えを皆さんから授かっていたんだと。改めて気付かされました。こうした人たちの心に後押しされ、また励まされ僧侶となったのだと。
その人たちの喜びは私自身の喜びであったのでした。
稽古とは 一よりはじめ 十を知り
十よりかえる もとのその一
(千 利休)
私にとっての『其の本』とは初心でありました。十とは一があってこそ存在できるものです。喜び合えることこそ、わたしのいのもを生きている、と実感できるのではないでしょうか。
私の息子も21歳と19歳になりました。
彼らもいずれ解ってくれると信じています。
さて、あなたの初心は?
堀尾 佳裕