
ここ南国愛媛の地に、この冬最初の雪が降りました。息子達は、嬉しそうに元気よく登校して行きます。とはいっても、遊べるほど積もったわけではありません。
昼前には地面の雪は溶けだしましたが、お寺の所々で雪は残っていました。普段、見慣れた境内が、がらっと様変わりしています。特に、松や梅の木に降り積もった姿は、私を新鮮な気持ちにさせてくれました。
雪の松 折れ口みれば なお白し
と松尾芭蕉は詩います。
雪の重みで折れた松の枝。その折れた枝、その折れ口が雪の白さよりも、もっと白く美しいと言うのです。自然の中に生きている、みずみずしい枝の折れ口に「いのち」を感じたのです。そして、その「いのち」は雪の白さよりも輝かしい白を映し出しているのです。
この『松の折れ口』には、まだ他に何かを例えていることに気がつきます。
雪を見て嬉しそうにしていた息子達。新鮮な気持ちにさせてくれた私。そして、その俳句を作りだした松尾芭蕉と。雪の美しさを五感を通じて心へと通じた、みずみずしい「いのち」を具えた私たちを例えていたのです。
また、雪のとらえかたは地方によって異なります。豪雪地帯に住む人達は、時にはその雪を厄介者と見るでしょう。豪雪で寸断された、その地方の暮らしぶりを伺えた時、まるで雪に圧せられた松のように感じることができるのではないでしょうか。けれども、寒空の下、一面真っ白な景色の中で、汗をかきながら、一生懸命に雪かきをしなければならない、その土地の人々の姿に『松の折れ口』にも似た「いのち」の輝きを垣間見れるのです。
禅を学ぶ機会とは、何も教典を読んだりするだけではありません。自然や日常の中で触れるさまざまな事象をそのまま素直に受け入れることも大切な機会であるのです。
雪を美しいと感じるのか、厄介者と思うのかは、その時、その状況でそれぞれ違いが生じるのは否めません。
ただ、私たちには雪の白さに負けないほどの真っ白い清浄な「いのち」を頂いていることに気がつくことなのです。
多田 曹渓