
生きるものが命を存えるには、まず食べねばならない。栄養、エネルギーの補給である。これを断たれて生きて行ける生命体は、存在しない。目に見えないようなバクテリアから人に至るまで、生けとし生けるものすべて、何らかの方法で栄養補給しているのである。
「食べる」というは、他の命を奪うことである。「わたしのいのち」を保つには、五戒の一つである「不殺生戒」を、いやが応にも犯してしまうわけである。「わたし」は、如何にも罪深い存在なのである。
逃れようのない破戒行為と、己の罪深きを知った時、行うべきは、懺悔(さんげ)の行である。
「私はたくさんのいのちを奪うという罪を重ねました。心から懺悔いたします。しかしそのいのちのおかげさまを以って、今ここに生かされています。ただひたすらに感謝するほかありません」
物質的には豊かな社会になった昨今、懺悔と感謝の念が、忘れ去られているような気がしてならない。コンビ二で販売されているお弁当、ファストフード店の売れ残りなどが、毎日数万トンという単位で廃棄されているとも仄聞(そくぶん)する。
尊い「いのち」が徒に消費されて行く時代、「勿体無い」という言葉が死語とされるような時代に、私は在る。そういう時であればこそ「見つめよう わたしのいのち」というテーマが、輝きを増すのだと思う。
「わたしのいのち」を深く見つめれば、それが幾多の他の命によって支えられて来たかを知ることができる。それはまさに「他のいのち」をも見つめることでもあるわけだ。「わたしのいのち」を支えてくれた「他のいのち」もまた、別のいのちよって支えられている。命の鎖は、連綿として限りがない。
「食事五観の偈」第二観に「二つには己が徳行の全缺(ぜんけつ)をはかって供に応ず」と見えるが如く、己が徳行の不完全さを思い知り、それでも命の糧を得られることに深い感謝の念を抱きながら食をいただかねばならない。「生きている」のではない、「生かされている」私が、ここにいる。
自分の命だから大切、なのではない。他のいのちと、摩訶不思議なご縁によって生かされている「いのち」だからこそ、大切なのである。
決して粗末にも、無駄にも、できない。
村井 俊哉