
先般のお盆には、皆様どなたもご先祖様をお迎えし、またお見送りされたことと思います。幼少の頃、8月15日夕方になると祖母が「あんた達のご先祖さんがまた天に帰られて、あんた達を見守って下さるからねぇ。」と、よく私共兄弟にそう言い聞かせながら、線香を灯して手を合わせたものです。ご先祖様はそうしてまたご自分の居場所へ帰られるのですが、現在世に生きる私達は果たして自分の居場所(心の在りか)を明確にしているのでしょうか。
私達はそれぞれにいろんな顔を持っています。私の場合、一山の住職であり、小学校PTA役員など地元の諸団体に顔を出し、また家庭に於いては夫であり、父親であります。いろんな顔や肩書きで、自分勝手な欲望やプライドをついつい持ってしまいます。自分の思い通りにならないと、つい生活がなげやりになり、自分は何のために生きているんだろう、などと思ってしまうこともあります。
皆様よくご存知の、石垣りんさんの「表札」という詩は、大切なことを私に教えてくれました。
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様がついた。
旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場のかまにはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も殿も
付いてはいけない。
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない。
石垣りん
それでよい。
私はどうも、他人様から付けてもらう様や殿にこだわりすぎていたんだなと、痛感しました。では本当の自分の居場所(心の在りか)はどこでしょう。
中国・唐の時代の龍牙和尚は、
木食草衣(もくじきそうい)
心 月に似たり
一生無念 また無涯
もし人 居(きょ)いずれの処に在るかを問はば
青山緑水(せいざんりょくすい)是れ我が家。
と、詠われました。春夏秋冬、それぞれの姿に素直に変わる、変幻自在の青山緑水そのものが、そのまま自分であると言われたのです。そこには自分勝手な欲望もプライドもありません。ただ、生かされている喜びと、感謝のみ存在しています。そこに本当の自分の居場所があるのではないでしょうか。ここのところをお釈迦様は「仏心」、達磨さんは「禅」、妙心寺開山様は「其の本」と表現されたのだと思います。
岩淺 宏観