今月の法話

066 自分の居場所

 先般のお盆には、皆様どなたもご先祖様をお迎えし、またお見送りされたことと思います。幼少の頃、8月15日夕方になると祖母が「あんた達のご先祖さんがまた天に帰られて、あんた達を見守って下さるからねぇ。」と、よく私共兄弟にそう言い聞かせながら、線香を灯して手を合わせたものです。ご先祖様はそうしてまたご自分の居場所へ帰られるのですが、現在世に生きる私達は果たして自分の居場所(心の在りか)を明確にしているのでしょうか。

 私達はそれぞれにいろんな顔を持っています。私の場合、一山の住職であり、小学校PTA役員など地元の諸団体に顔を出し、また家庭に於いては夫であり、父親であります。いろんな顔や肩書きで、自分勝手な欲望やプライドをついつい持ってしまいます。自分の思い通りにならないと、つい生活がなげやりになり、自分は何のために生きているんだろう、などと思ってしまうこともあります。

 皆様よくご存知の、石垣りんさんの「表札」という詩は、大切なことを私に教えてくれました。

  自分の住むところには
  自分で表札を出すにかぎる。

  自分の寝泊りする場所に
  他人がかけてくれる表札は
  いつもろくなことはない。

  病院へ入院したら
  病室の名札には石垣りん様と
  様がついた。

  旅館に泊まっても
  部屋の外に名前は出ないが
  やがて焼場のかまにはいると
  とじた扉の上に
  石垣りん殿と札が下がるだろう
  そのとき私がこばめるか?  

  様も殿も
  付いてはいけない。

  自分の住む所には
  自分の手で表札をかけるに限る。

  精神の在り場所も
  ハタから表札をかけられてはならない。
  石垣りん
  それでよい。

 私はどうも、他人様から付けてもらう様や殿にこだわりすぎていたんだなと、痛感しました。では本当の自分の居場所(心の在りか)はどこでしょう。

 中国・唐の時代の龍牙和尚は、

  木食草衣(もくじきそうい)
  心 月に似たり
  一生無念 また無涯
  もし人 居(きょ)いずれの処に在るかを問はば
  青山緑水(せいざんりょくすい)是れ我が家。


 と、詠われました。春夏秋冬、それぞれの姿に素直に変わる、変幻自在の青山緑水そのものが、そのまま自分であると言われたのです。そこには自分勝手な欲望もプライドもありません。ただ、生かされている喜びと、感謝のみ存在しています。そこに本当の自分の居場所があるのではないでしょうか。ここのところをお釈迦様は「仏心」、達磨さんは「禅」、妙心寺開山様は「其の本」と表現されたのだと思います。

岩淺 宏観