
このところ、毎年私のお寺に、盲学校の児童・生徒が坐禅にやってきます。盲学校と私のお寺は少し距離があり、バスで40分近くかかります。バス停からさらに徒歩で10分少しです。私が出かけて行って、坐禅会をすれば労が少なくて済みますが、児童・生徒の社会体験が大切なのでしょう、バスと徒歩でやってきます。
折り悪(あ)しく、雨の日にやって来ました。バス停から歩いてくるのはいつもより大変だったと思います。それでも目的が坐禅ですから、本堂で坐禅をしました。
坐禅が終わって、児童・生徒と、そして付き添いの先生といっしょに、お茶をいただきました。
その時、ひとりの生徒がこう言いました。
「雨の音はいいですね。坐禅しながら聞いていると、私の心の中に、しとしとと雨が降っているようで、心がみんな雨になって、とてもゆったりとした気持ちになりました。」
私は、このことばを聞いて、びっくりしました。目が見えないことは、つらいことだと思っていますから、雨の中を歩いてくることは私よりも余程難儀なことと同情していたのですが、彼はその雨の音をすばらしいと感じているのです。目が不自由なことは決して不幸せなことではないと思いました。むしろ坐禅をしていても、私は時として目をキョロキョロさせて、落ち着かないことがあります。盲学校の児童・生徒は、静かにゆったり坐ります。雨音と一体になる境地には、私自身なかなか到達し得ません。ですから、かえって児童・生徒に道を教えられた思いがしました。
私たちは、幸せを外へ外へ、また豊かさへ豊かさへと求めていますが、幸せの原点はすべて私たちの内側にあるのではないでしょうか。
「請う其の本を務めよ」というのは、前提として、幸せはすべて、私の足元にあると述べているのだと言えます。
新野 建臣