今月の法話

064 衆生本来仏

 毎日の生活の中で、人に救われることがたくさんあります。困っているときに仕事を手伝ってもらったり、また、落ち込んでいるときに優しい言葉を一言かけてもらってホッとしたという経験は誰にもあるものです。
 そんなときは、相手が「かみ、ほとけ」に見え、拝みたくなるほど。ということは、神仏はどこか遠いところにあるものではなく、実は私たちのまわりに、「いつでも」「たくさん」あるのだということです。
 逆にまた、そんなまわりの人たちのために、自分自身が仏さまになって差し上げることもできると思います。
 衆生は、一人一人が仏として生まれ、お釈迦さまと寸分違わない「こころ」を持っています。それを固く信じて、私たち仏教徒は修行をするのです。
 何につけ、「信じる」ということができない人は、おそらく自分自身も信じられないと思います。「仏さまを拝むということは、自分を拝むということ」と言うではありませんか。
 忘れてならないのは、人は未知の可能性を無限に秘めているということです。それを「未見の我」と呼び、未来に花咲く可能性を説いた安積得也さんに「迷信」という詩があります。

 忙しくて勉強ができない
 迷信なり
 もう力が出ない
 迷信なり
 これ以上進めない
 迷信なり
 彼は悪者なり
 迷信なり
 私はもうだめです
 大迷信なり

   (安積得也『一人のために』善本社)

 人は、それぞれの立場に応じて少なからず努力します。何のためかと言えば、突き詰めれば「誰かに喜んで欲しいから」ではないでしょうか。一人一人が、実は磨き上げられた仏であることを信じて、さらに磨くだけです。
 そんな中で、私たちが持っている、「してもらうと嬉しい。してあげられたときはもっと嬉しい」という気持ちに早く気づいて行きたいものです。

武久 寛海