
秋田県で痛ましい事件が起きました。自分の娘が川で死亡し、さらに関連は定かではないのですが、2軒お隣の子どもを殺害した、というもので事件の真相が待たれる所です。
私はこの容疑者の女性は、これまで良い縁がなかったな、と心が痛みます。
大阪の刑務所に収容されていたある死刑因の遺句に
「この体 鬼と仏と あい住める」というのがあります。
状況と条件次第では、強盗でも殺人でもしかねない。その同じ人が、またことと次第では仏さま顔負けするほどの善行をやってのける。その両方の、あらゆる可能性を秘めているのが、人間というものです。
私たちは刑務所など出所してきた人に対しては、とかく頭から駄目な人間というレッテルを張ってしまいがちです。逆にお金持ちの人、地位の高い人、周囲から信望のある人などに対しては、あたまから信用できるよい人、というレッテルを張ってしまいます。
しかしどんなにマイナスの過去を生きてしまった人でも、むしろそれゆえに目覚め、マイナスを、汚れを肥料として、見事に美しい花を咲かせることもできるのです。逆に周囲から信望のある人でも、悪条件が重なれば、人殺しだってしかねないのですから油断がなりません。
私も皆さんも同じです。私たちのこの体の奥底には恐ろしい鬼と、仏さまの両方が棲みついているのです。気ままな凡夫の思いを先としてやりたい放題の生き方をして、自分の人生を省みるのもいやなような生き方をしてしまうのと、自ら省みて自分の生きざまをいとおしみ、拝みたくなるような生き方をするのと、どちらが自分の命を大切に生きる生き方なのでしょう。
京都大学の元総長であった平澤興先生は、
「人は皆、30数億年の歴史を背負い、50兆の細胞生命によってこの体が構成されている」と語っておられます。
30数億年の命の進化の歴史といわれても、数字に弱い私には見当さえつきません。そこで1千年を1ミリとすると、30数億年は何メートルになるかといえば、3千メートル余りになります。お釈迦様が生まれて2千5百年で2,5ミリ。それに比べると人類の進化の歴史は、なんと3千メートル余りなのです。
想像を絶する永い永い時間の集積の上に、今日の私や皆さんの命があらしめられているのだということがわかります。頭や器量の良し悪しは関係なく、すべての人がひとりの例外もなく、この命、この体の背景に30数億年という、ずっしり重い人類の命の遺産を頂戴している事を忘れてはならないと思うのです。
しかもこの体は生まれながらにして50兆の細胞が無限の調和を保ちつつ、働きづめに働いていてくれればこそ一刻一刻の私が、そして皆さんが生きていられるというのです。
私一人の肉体だけを考えてもこれほど大変なのに、その私を生かすために太陽が輝き、雨が大地を潤し、酸素や気圧は地球を包み、草木は花を咲かせ果実を実らせてくれるのです。
医学博士の米沢英雄先生はこれを
「吹けば飛ぶゴミのような命を、宇宙が総力をあげて生かしてくれている。ゴミの命と天地宇宙とかけあう価値ありと知れば、手を合わせないではおれなくなる」とおっしゃっておられます。
こんな大事な生命を授かっている私たち人間は、誰も本当に幸せものと思わずにはいられません。
その生命を鬼ではなく、仏さまの方向に向けて少しでも軌道修正しながら、毎日を大切に歩んでいきたいものです。
澤田 慈明