今月の法話

056 「私」はどこに?

 今の世の中、テレビをつけても、新聞を開いても、目に飛び込んでくるのは嫌なニュースばかりです。こと、児童虐待や犯罪の低年齢化で、被害者側、加害者側、どちら側にも子供が関わっていることが多く、そのようなニュースを目にすると、心が痛みます。なぜこのようなことが、後を絶たないのでしょうか。



 今の世の中、テレビをつけても、新聞を開いても、目に飛び込んでくるのは嫌なニュースばかりです。こと、児童虐待や犯罪の低年齢化で、被害者側、加害者側、どちら側にも子供が関わっていることが多く、そのようなニュースを目にすると、心が痛みます。なぜこのようなことが、後を絶たないのでしょうか。

 私たちは、何かあると、「私は、私は」と自分の主張を通そうとします。でも、私たちの中の一体どこに、「私」というものがあるのでしょう。皆さんは、亡くなられた方の収骨(お骨拾い)に立ち会われたことがあるでしょうか。その際、骨だけとなった体の中に「私」はありましたでしょうか。ありはしません。では、「私」は、荼毘にふされて、焼かれてしまったのでしょうか。そんなこともありません。「諸法無我」。仏教の根本的な考え方で、この世の中の、すべてのものの中に、「我」、つまり、「私」というものは存在しないという教えです。

 それなのに、そのありもしない「私」を主張して、自分の都合のいいように、自分の思い通りに物事を進めようとする。そのような考え方が、現在のような、大人になりきれない大人、先のことをまったく考えず、衝動的に行動する子供たちを、作り出す原因になっているのではないでしょうか。親になったのに、自分のことを第一に、自分中心で考えるものだから、「子供のために我慢する」ということができない。少し考えれば、自分の起こした行動の結果がどういうことになるか、わかるはずなのに、本当に簡単に、自分の感情のままに人を傷付けてしまう。どちらも、ありもしない「私」に振り回されているように思います。

 一昔前に比べて、間違いなく確実に、日本という国は潤い、私たちの生活は豊かなものとなっています。それなのに、人の心の方はと言えば、豊かになるどころか、ギスギスした、余裕の無いものになっているように思えて仕方ありません。どんなに物が豊かになっても、それを使う人間の方が、ありもしない「私」に振り回されているようでは、いつまでたっても心の豊かさは身につきません。これ以上、悲しいニュースを目にしなくてもいいように、「自らを調え、生活を調える」ことを心掛け、本当の意味での豊かさを手に入れたいものです。

木村 浩章