
わたしのお寺は岐阜県の東南、海抜500メートル程の山村で、田園風景の日本一といわれるくらい周りは田圃ばかり、その真ん中に位置します。お寺というと山がそばにあるか、山の中腹にあるのが相場ですが、都会でもないのに平地にあるのも不思議なことです。
周りの家も最近の建物となって昔ながらの古い家も少なくなってきました。農家の玄関先は大変広く造られていて、一時的な米の保管場所も兼ねていました。無論お寺の玄関も例外ではなく、昔は晩秋になると米俵がたくさん積み上げられていたことを記憶しています。
昭和38年のこと、わたしがまだ小学校に上がる前(翌年東京オリンピック開催)、玄関先に高く積み上げられた米俵の上に登って遊んでいると、突然祖父に大声で叱られました。それまでは一度も叱られたことなどなかったものですから、驚いて飛び降りました。鬼の様な形相でしたが、わたしが降りるのをみると元の穏やか顔に戻りました。どうしていけないのか尋ねてみたものの、答えてはくれませんでした。
一昨秋の米は凶作で、一時保管の米が盗難に遭い、ひどい場合には収穫前の稲までも被害に遭いました。昨秋は豊作でしたから盗難被害は皆無...。それ程米の出来不出来は不安をあおるようですが、その反面で飽食の時代などといわれ食物全般が粗末に扱われ感謝の念すら失われつつあるようです。これは本当の『たからもの』に気付いてないからだと言えます。
『たからもの』というと金銀財宝・不動産などを思い浮かべるのですが、大言海という辞典には『田自出る意(たからいずる)』とあります。田から収穫されるもの、たからもの...。米づくりは八十八の手間を掛けるといわれるほど収穫まで骨の折れる仕事です。額に汗して黙々と働く姿。いえ、その汗そのものが尊いたからものだったのです。
米に限らずわたしたちの身の周りには宝の山があることに気付かねばなりません。人々が流した尊い汗の結晶を土足で上がってはだめだと今は亡き祖父の叱咤の意味を噛み締めています。このたからものは盗もうとしても決して盗まれることはありません。
地球が大きな田圃とするならばその中にある生ける物すべてが『たからもの』ということがいえます。お釈迦様のみ教えにある『山川草木ことごとく仏性あり』は『たからもの』という言葉の中にも生きています。
今はただただ感謝感謝、米にも祖父にも...。
堀尾 佳裕