今月の法話

053 上求菩提 下化衆生

 サブテーマに「みんなで幸せになれるよう」とありますが、「幸福は、ただ、自力でつかむしか、道はない。自力でつかむ意思、希望をあたえてやることが、隣人の愛では、精いっぱい可能な範囲である。『俗つれづれ草(吉川英治著)』」と記されています。

 親が子供のために尽くす姿の中に同事という教えを見出すことが出来ます。
親が子供とゲームで遊んだり、キャッチボールをしたりする時、親は子供と同じ姿です。
しかし、これが、子供と遊ぶ為でなく、親がゲームに夢中になれば、堕落となります。
親が子供の宿題を手伝う時、子供の立場に立って教えなければ、子供は理解出来ません。
つるかめ算に旅人算(たびびとざん)。通過算(つうかざん)に流水算(りゅうすいざん)。難しい宿題がでてくると、親も必死で勉強します。

 ある時、子夏(しか)が孔子(こうし)に顔回(がんかい)についてたずねました。
孔子は、「顔回の仁なることは私にまさっている。」と答えました。
子夏はさらに、子貢(しこう)についてたずねました。
孔子は、「子貢の弁舌は私にまさっている。」と答えました。
次に、子路(しろ)については、「子路の勇気あることは私にまさっている。」と答え、子張(しちょう)については、「子張の重々しくキッとしていることは私にまさっている。」と答えました。
そこで子夏が、「それでは、この四人はどうしてあなたに師事するのか。」とたずねると、孔子が言うには、
「顔回は、よく仁なることはできるが、仁に反することはできない。
 子貢は、能弁(のうべん)ではあるが、訥弁(とつべん)になることはできない。
 子路は、勇気はあるが、臆病(おくびょう)になることはできない。
 子張は、荘重(そうちょう)ではあるが、和光同塵(わこうどうじん)することはできない。
 私は、仁を行うこともできるが不仁を行うこともできる。
 私は、能弁のこともあるが、訥弁のこともある。
 私は、勇気をもって断行することもあるが、臆病なこともある。
 私は、重々しくキッとしていることもあるが、皆と一つになり和合する時もある。
 これらの四人が私に師事するのはこのためである。」

 自由を得た上で、自分がつねに向上することをめざしてこそ、人の身になって尽くすことができるのです。これが上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)です。

香泉 芳宗