
白隠禅師のお師匠さんに正受老人という方がいました。この方は至道無難禅師について修行をしていました。正受老人が修行時代小さな小屋を建てお母さんと二人で暮らしていました。
ある時正受老人が山に薪拾いに出かけている時にお客さんが訪ねてきました。するとお母さんは自分の指を噛みます。そうしますと山で仕事をしていました正受老人の指が痛む。「お母さんが呼んでいるな」というのですぐ家に帰ったそうです。(『無文全集 第8巻 維摩経文殊師利問疾品第五』から引用)。携帯電話がない時代でも、親の心は子に通じ、子の心は親に通ずる。親子の愛情はこのようにありたいものです。
私の話になって申し訳ございませんが、私には四歳になる男の子がいます。私の子育ての方針で、強く・たくましく育って欲しいという願いを持って育てていました。ある時、この子と庭で遊んでいますと、何かにけつまづき転んで泣き出してしまいました。泣いているだけでなかなか自分から立ち上がろうとしません。私は子供に向かって「立て。男の子はそれぐらいでめそめそ泣くな」と叱り付けました。
その私の声を聞いたとたんに前より増して大声で泣き出しました。その声を聞きつけ、家の中から家内が飛び出して来て泣いている子にかけより抱きかかえて起こしました。私はそれを見て家内に「いらんことをするな。ワシはこの子に甘ったれた子になって欲しくないんだ。自分で立ち上がらせんか」と小言を言いますと、家内は「それはあなたの自己満足でしょ」と言って子供のすり傷の手当てを始めました。子供も泣くのをやめ安心しきって家内に抱きついていました。
私は自分勝手にそう思い込んでいただけで、それは自分の理想であり、子供にはわかってもらってなかったのです。
仏教の教えに「同事」がございます。「同事」とは読んで字のごとく同じ事をする。相手の立場に溶け込むことをいいます。歌人の吉野秀雄さんが愛誦していた言葉に「ひとの幸福をともによろこび ひとの不幸をともにかなしむ」があります
相手の身になり、悲喜をともにできるならばこれ以上の幸せはないでしょう。そのものになりきることこそ「禅」の実践行だと思います。うれしい人を見ればともに喜び、困っている人を見ればかけより助けてあげる。これが思いやりであり、相手の身になることではないでしょうか。その時、その場において我執を離れた広い視野で行動することが大切です。
皆でしあわせになるには、その人の心に溶け込む、一つになること、同じ目線で行動することではないでしょうか。
入不二 香道