
戦争は人の心の中で生れるもの
であるから人の心の中に平和の
とりでを築かなければならない
これは言うまでもなくユネスコ憲章の冒頭に掲げられている文章です。第二次世界大戦という未曾有の惨劇の反省にたって、人類の英知を結集した宣言であろうと思います。しかしながら、今尚、人間のいがみ合いは絶えません。
平和への道は、私たちの日常の生き方にかかっていると言っても過言ではありません。いさかいや争いの多くは、他に敵意を抱くことから生じます。
「彼、われをののしり
彼、われをうちたり
彼、われをうちまかし
彼、われをうばえり」
かくのごとく こころ
執する人々に
うらみはついに
やむことなし
(友松圓諦訳『法句経』)
彼、我と対立し、自我を立てるところに争いはなくなりません。相手の立場を思いやり、相手と同じ心になることが、平和への道に通じます。
中国唐代の禅者、龐居士(ほうこじ)は、『維摩経』の主人公維摩居士に比せられた人でありました。ある日、居士が町へざるを売りに出たとき、橋をおりがけにつまづき転んでしまいました。丁度、それを見ていた娘の霊照は、思わず側にかけより、自分も倒れてしまいました。
「お前どうしたんだ」と問う居士に、霊照は、「お父さんが倒れるのを見て、助け起こしてあげるのです」と答えたといわれます。
自分も同じように倒れたことが、どうして助け起こしたことになるのでしょうか。私たちは、人が倒れるのを見たら、声をかけるか、手をかして上から引き上げるかするのが一般ですが、それで本当に助けたことになるのでしょうか。いつまでも私は助けた人、あなたは助けられた人という自他の区別が、倒れた人の痛みを自分の痛みとすることを妨げるのです。その人の痛みを自分の痛みとするのでなければ、本当に助けることにならないでしょう。その人そのものになってこそその人の痛みがわかり、苦を同じくすることができるのです。
ある人に『女医とナースのないしょ話』という本を紹介されました。その中に大変感動した話が載っていました。
ある病院で、若い女性が脳腫瘍の診断を受けました。手術するためには、丸坊主にならなければなりません。彼女は、泣く泣く院内の床屋で髪を剃ってもらいました。手術への不安と坊主頭というつらい格好にどんな気持であったでしょうか。
ところが、担当した若いナースは、手術の間に自分の髪を落としてしまいました。手術が終って集中治療室で目覚めた彼女に
「私と、どっちが先に髪が伸びるかしら、結べるようになったら退院よ、きっと」と励ましたそうです。
どんな慰めや見舞の言葉よりも、勇気づけられ、心安んぜられたのは、ナースの坊主頭であったでしょう。その人そのものになることが、人の痛みを自分の痛みとし、その人の痛みを和らげ、その人の心を動かすことができます。
でも、それは口で言う程、簡単なことではありません。自他不二とは、自我を常に立てたい自分をなくすことですが、自分が可愛いという自我が直ぐに顔を出してきてしまいがちです。病院に見舞いに行けば、「元気になってください。頑張ってください」と他人事のように、相手を見、また健康な自分の立場から言葉を発する自分がいます。そういう自分を常に懺悔(反省)し、自我に執している自分を見つめる生き方が、心の中に平和のとりでを築くことになっていくのです。
鈴木 眞道