
紅(黄)葉の美しい季節になりました。観光客の目を楽しませてくれるこの美しい景色、実は、葉として最後の姿であることにも気づきたいものです。
秋になって冷え込んでくると、葉の中にある緑色の葉緑素が壊れて、光合成ができなくなるそうです。そして、残るのは、赤色のアントキアンや、黄色のカロチノイド等だそうです。そこで、人間の目に、紅(黄)葉として映るのだそうです。
人間に例えると、若いときには活力に満ちて、仕事・育児等に全力を尽くした(光合成をする緑色の葉)。しかし、高齢になると、そうはいかない(葉緑素が壊れてくる)。ただし、単に枯れて散るのではなく、美しく色づく(紅葉・黄葉)、と言えないでしょうか。
釈尊は、人間にとって思い通りにならず、しかも避けられない苦しみとして、四苦(しく)を挙げられます。生苦(しょうく)『生まれる時代や、親を選べない等の苦しみ』、老苦(ろうく)『老いる苦しみ』、病苦(びょうく)『病の苦しみ』、死苦(しく)『いつ死ぬかわからないが、死は避けられない苦しみ』です。
紅(黄)葉は、死の前、老病の段階です。しかし、美しい。
なぜか。自然の摂理に従って、同じように色づくからです。
四摂事(ししょうじ)という仏教語があります。意味は、自分も含め、人々を救うための四つの徳ということです。
【四摂事】
1、布施(ふせ)見返りを求めない施し
2、愛語(あいご)慈愛の言葉
3、利行(りぎょう)自分を忘れ他人に尽くす
4、同事(どうじ)みんなと協力する
この四つです。
紅葉は、同事の良い例だと思います。誰に命令されるでもなく、時期が来れば色づく。一枚一枚の葉は、おのおのが美しく、また、全山の紅(黄)葉も美しい。紅と黄が引き立て合うのはもちろん、常緑樹の変わらぬ緑、湖面や川面の碧と引き立て合うことさえあります。
紅、黄、緑は、違う色です。特に、紅(赤)と緑は、補色といって、反対の色だそうです。この二色の絵の具を混ぜ合わせると、濁った色になってしまうそうです。絵を描く時も、この二色を隣接させると、どぎつい配色になったりします。
禅の世界は、少し違います。紅葉に因む禅語は多数ありますが、その一つに「紅楓碧潭(こうふうへきたん)に映(えい)ず」というのがあります。美しく紅葉した楓が、碧く静かな川面に映る。違うものが引き立て合う。また、この川面のようなこころでありたいという意味でもあります。
秋の山もまた同じ。なぜ、異なるものが引き立て合い、より美しくなるのでしょうか。同事を単に「同じことをする」とだけ捉えては、こうなりません。
最近感じるのですが、法要の時の食供養(じきくよう)『食事、お斎(とき)』が、変わってきました。昔は、みんなが和やかに語り合って頂いたものです。しかし、最近は、「頂きます」もそこそこに、黙ってガツガツと食い散らかしておしまい、という人が増えました。孤食の影響でしょうか。単に同じものを食べるだけでは、同事とは言えないのです。
大切なことは、二つあります。一つは、協力し合うかどうか。もう一つは、他の三つの徳があるかどうかです。
和やかな食供養、秋の山は、お互いが協力して、お互いの良さを引き出す世界です。
また、協力しようとすれば、施し、慈愛の言葉、利他行は不可欠です。同事といっても、他の三つの徳(布施・愛語・利行)を踏まえてのことなのです。
植物に、そのような意志は無いかもしれません。しかし、仏教徒が自然を見るとき、楽しむと共に、常に自らの問題として見ることも必要です。
読者が高齢の方であれば、まさに今日の課題として、若年の方であれば、将来のため必要なこととして、とらえて頂きたく思います。
伊達 義典