
戦争......それは、人間同士が殺し合うことである。生身の人間を銃剣で突き殺す、とてもまともな精神状態でできることではない。
戦争も激しくなった昭和17年4月、京都の妙心僧堂で修行をしていた私にも召集令状が来て、墨染めの雲水法衣(うんすいごろも)を軍服に着替え、遠く西の果てビルマ(今のミャンマー)とインド(現在はバングラデシュ)との国境まで出征した。陸軍歩兵一等兵(下っ端の兵隊)。
昭和18年9月、すし詰めの輸送船に乗せられ、絶えずアメリカ潜水艦の出没に脅えながらの船旅。途中、私はビルマに入ってから熱病にかかったために本隊より20日ほど遅れて前線の部隊に到着した。配属されたのは歩兵第122連隊第4中隊。聞けば10日ほど前に大激戦があって、私の中隊は中隊長以下全員玉砕(全滅のこと)したそうで、そのあとへ私たち補充兵が、配属されたのである。この戦闘で、内地を一緒に出発した戦友もだいぶ死んだらしい。しばらくしてその戦いの跡を通ってみると、敵の砲弾と戦車に山容も一変するほどにじゅうりんされた陣地に漂う屍臭と硝煙の臭い、酸鼻(さんび)の極みとはこういうことだろうかとその時受けた強烈な印象は、今も忘れることができない。
そして、あの陣地の壕の中には多くの日本軍将兵の遺体がそのまま、今は恐らく深いジャングルに覆われたまま、遺骨を収集する者もなく線香一本手向ける者もなく、鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)、草むす屍となっておられることであろう。
全ビルマでの日本軍人軍属の数は約33万人。その中の18万人ほどは再び祖国の地を踏むことはなかった。
また、その半数は飢え死と病死であったという。こんな無謀な戦争を誰が考えて始めたのか。第一、食べ物に困った。何か食べられる草はないかと、キョロキョロして歩いたこと。たまたま敵の陣地に捨てられてあった岩塩をかじりながら、かび臭い半煮えの玄米飯を食べたこと。軍服、シャツなどは内地から着て来たものだけ、特に困ったのは靴である。戦死した戦友のはいている靴を「すまん」と手を合わせて、はきかえたこと。
「お前はお坊さんだから夜襲で戦死した上等兵の葬式をしてやってくれ」と隊長に言われて、彼の小指を剣で切り落とし、夜、飯ごうで飯を炊く時に「一心頂礼...」と舎利礼文を唱えながら小指を火葬にした。あの時のお骨は無事に故郷の墓に帰っただろうか。
中隊の半数以上はマラリヤと悪性下痢にかかっているのに薬は全くなく、普段から病弱な私などやせこけて、重い背嚢(はいのう)にふらふらしながら、それでも遅れまいと懸命に歩いたこと......等など。
そんな思い出は、次の世代には絶対に繰り返させてはならないと、切に思う。
終戦と同時に、全軍はことごとく英軍の捕虜になって、小説「ビルマの竪琴」にも出てくるムドンの捕虜収容所に入った。その時、私につけられた屈辱の捕虜番号、それが「1134」であった。
五葉 之春