今月の法話

043 雨宿り

 ある夏の終わりのこと。当時、まだ幼かった次女に、やむをえず寺の留守番を頼んだことがありました。ちょうど不審者が多発している時期であり、また、宅配業者を装った強盗事件の直後だったこともあって、「顔見知りの檀家さんやご近所の人以外、玄関を開けてはいけないよ。いいね、絶対に、だよ」と、しっかりと言い渡して出かけたのです。

 帰宅して、留守中の様子を聞いて驚きました。なんと娘は、玄関の外で困っている人がいたから、誰だか知らないけど中に入れて助けてあげたよ、と言うのです。

「えっ? 知らない人を家に入れちゃだめだって、あれほど言ったのに!」

 くわしい事情も聞こうとせず、頭ごなしにまくし立てる私に、娘は、ちょっと不満げにうつむきながら、  

「だって、雷が恐いって、女の人が外で震えていたんだもの」

「ん? 雷...?」

 丁度そんなやりとりのさなか、寺を訪れた方がありました。先ほど、娘が助けてあげたという女の方でした。その方がおっしゃるには、散歩の途中で突然の雷雨に見舞われたこと。自分は雷が大嫌いで、あいにく傘も持っていなかったので、お寺の軒下に飛び込んでしゃがみこんで震えていたこと。そうしたら、気づいたお寺の娘さんが、玄関の椅子に坐らせてくれ、『これ飲んで落ち着いてください、こんなものしかありませんが...』と、冷たい麦茶を出してくれたこと。おかげでほっとして、雷が静まるのを待って家路についたこと...。

 一部始終を問わず語りに伝え終わると、何度も何度も、深々と頭を下げられたのでした。 よっぽど恐かったのでしょう。そして、娘の小さな心くばりが、よっぽどうれしかったのでしょう。

 私は自分の早合点を悔いながら、娘の行動を振り返っていました。

 雷が大嫌いな娘は、わが身に置き換えて、どうしてもその女性をそのままにしては置けなかったのです。さらに、ふだん何かにつけてお茶を飲むとほっとすることを知っている娘ですから、気が動転している大人を見て、わが身に置き換え、麦茶でひと息ついてもらいたいと考えたのでしょう。

 困った人を見て何もせずにはおられず、子どもなりに、一生懸命相手の状況を思いやって、できる限りのことをしたのですね。たとえ、父親に叱られるかもしれなくても。

 みなさんよくご存じの「観音さま」という菩薩さまは、苦しんだり悲しんだりしている人の声や姿を観て、その人を何とか助けてあげたいという願いを絶えず持ち続けていらっしゃる菩薩さまですが、私は、このとき、まだ小学生の小さな娘の中に、観音さまのはたらきを見た思いがしました。

 (観音さま? 何を大袈裟な!)と、意外に思われるかもしれませんが、実は、この観音さま、何も特別な存在ではないのです。

 有名な『般若心経』の冒頭は「観自在菩薩」と、観音さまの名号で始まりますが、至道無難禅師(しどうぶなんぜんじ)という高僧はこの部分を、「観れば自(われ)に在る菩薩なり」(見レハ我ニ有ホサツ也『即心記』)と、説かれています。私たち自身が観音さまなんだよ、人ごとじゃないんだよ、と。

 本当はすばらしい観音さまである私たちが、そのことを思い出し、そして、お互いができるだけたくさん観音さまの働きをして、みんなで幸せになるために、禅ではまず「自らを調える」ことの大切さを説くのです。

長島 宗深