今月の法話

041 悟りとは何か?

 西片義保老師(妙心寺管長)は、「悟りとは何か」を前述のようにわかりやすく示して下さいました。差を取り去るとは、自分の価値観を全て捨て去り、周りの状況や相手の気持ちと一体になることです。この他と一体となる教えを「同事」と言います。

 それでは、何故他と一体となるように説かれているかといえば、周りの状況を純粋な心でそのまま受け入れられれば、その状況に正しく対処することができるので、間違いが少なく幸福に暮らせるからです。また、相手の立場に立って考えてあげれば、相手を幸福に導くことができますし、自分自身の喜びにもつながるからなのです。

 しかし、言葉では簡単ですが、自分の価値観を離れて考察するのは、案外難しいのです。

 近頃、我が家の洗面台は、長い髪が落ちたままになっている事が多いので、清潔にしておくよう2人の娘に厳しく注意しました。すると、「お父さんは髪の毛が無いからそう言うふうに言えるんやわ」と反論されてしまいました。確かに、お坊さんが注意しても、条件が異なるので説得力に欠けます。<なるほど>と思い、娘たちの生活習慣を考慮して、やんわりと注意し直しました。「売り言葉に買い言葉」ということわざもあります。自分の価値観だけで考えず、初めに相手の立場を尊重して注意していれば、このような反論はされなかっただろうと考えさせられました。

 ところで、私は岐阜市の瑞龍寺専門道場で修行させていただきました。指導者の三井大心老師のお世話役もさせてもらったのですが、何回も注意を受けたのは、「食べ物が硬い」ということでした。その時は、<こんなにやわらかいのに食べられないのだろうか?>と思っていました。ご高齢になられ、入れ歯を使われている老師のご苦労が理解できなかったのです。

 ところが、自分も年齢を重ね、歯茎が弱くなってきました。奥歯の歯茎の腫れが数日間続いた時は、硬いものが食べにくく、食べ物が美味しくありませんでした。楽しいはずの食事も、喜びが半減しました。そんな時、つくづく思ったものです。<ああ、老師にはもっとやわらかい食事を作って差し上げればよかった。本当に申し訳ないことをした...>

 修行僧も忍耐が必要ですが、老師も私の下手な料理をよく召し上がって下さったものだと、その辛抱強さに頭が下がりました。今でも歯が痛くなると、老師の叱責が聞こえてまいります。他人の気持ちと一体となるためには、自分も同じような体験をする必要があるのかもしれません。

 しかし、誰もが同じ体験をする訳ではありませんし、人の価値観というのは、生まれ育った環境によるところが大きいので、微妙に異なります。その違いを認識するのが難しいところです。

 また、大人と子ども、若者とお年寄り、男性と女性、上司と部下というように、それぞれの立場がありますので、差を取り去るためには、相互理解が必要です。管長様がおっしゃるようなサトリにはなかなか至りませんが、差を取り去ろうとする姿勢が最も大切です。

  子ども叱るな 来た道じゃもの

  年寄り笑うな 行く道じゃもの

 子どもだから、嫁だからといって、ただ注意すれば良いというものではありません。また、姑さんには長年その家を守ってきた知恵というものがあります。お互いが歩み寄り、相手の身になって尽くそうとすれば、みんなが幸せになれるのではないでしょうか?

 「サトリとは 差を取り去ることだ」この言葉を心の常備薬として、是非持ち歩いていただきたいものです。

飯沼 宗秀