
人の身になって尽くす、を仏の教えからみると、自分と他人が別である、という心を無くし、他の喜びを我が喜びとなし、他の悲しみを我が悲しみと感じる心を持つ事。と示されている。
現実は、他の喜びを我が悲しみとし、他の悲しみを我が喜びとする......という自己中心で、自分さえよければが、先行しているからこそ、仏の教えが必要なのである。
何か起きた時に、行政が対処して当り前という他人まかせで、対岸の火事的な観方(みかた)をしていたが、阪神淡路大震災の頃から奉仕・ボランティア活動が、国内に拡まってきた。
坐禅の坐の字は、大地に二人の人がすわって、じっくり話し合いをしている姿である、という解釈を聞いた事がある。
二人の人とは、他人の悲しみを我が喜びと思う心と、他人の悲しみは我が悲しみと思う心の二面性である。
人の身になる後者が、前者を抑え他人事ではない、私にも何かお役に立てる事がある、と行動を起こされた。阪神大震災の時、バイク仲間の若い人達が、俺達にできる事は、バイクで物資を運ぶ事だ、とバイクボランティアをされた、という報道を耳にした記憶がある。
一台でも多くのバイクを集め、可能なかぎり東奔西走をし、少しでも役に立てられる事が我々の気持ちである、と言った内容のインタビューに対しての言葉であった。
最近では、福岡・新潟等の地震災害においても、たくさんのボランティア活動がなされた事が報道された。
その時その時の内容は異なるが、周りの人達が少しでも幸せに向かってゆく手助け、自他の区別なく、相手の身になってしなくてはいられない気持ちが、自分をも幸せに導いてゆく事につながっているのである。
話が横道に入るが、制令合併前は人口五千人程の村の寺で、日々を過ごしている。村内各集落で、四十五才以上を対象にしたソフトボールチームが八つあり、私も地元のチームに入って球を追いかけている。
試合を重ねてゆくうちに、人の身になって尽くしましょう。があてはまる様に思えてならない。人の身という言葉をチームにおきかえてみると、チームの身になって尽くしましょう、となる。
ソフトボールを好きな人が、すすんで参加し楽しんでいる。守備についた時は、いかにアウトにするかのチームプレイが大切である。ベースで待っている仲間に、いかに捕りやすい球を投げるかによって、アウトカウントが変わってくる。
また攻撃の時に、勝手に俺はホームランを打つ、と言った独自の考えが通用しない時が多い。長打ヒットを狙いたいが、アウトカウント・走者はどのベースにいるのか等を判断し、ここはバントで進塁させ、自分はアウトにならねばならない時もある。
今、何をすればチームが優位になるかを考え、行動に移す事の積み重ねが、目標の頂点に近づくことになる。
昨夜も試合をし、十四・五人の仲間とチームの身になって尽くした成果が出て勝利し、ビールで祝杯をあげ、チームに尽くすことが自分自身の喜びにつながった。
チームの喜びを我が喜びとし、チームの悲しみを我が悲しみとする心を、ソフトボールで体験している。この体験を生かしてゆき、他にも広めてゆきたい。
鷲津 義芳