
** はじめに **
今年は、終戦六十周年にあたります。当時の悲惨な戦争を体験された方々もだいぶん高齢になってこられました。そこでこの度、寺がある当「五郎地区」より、貴重な戦時体験を風化させないためにと、「私の戦時体験の記」を小冊子にまとめ出版いたしました。
その中に、城願寺の檀家で、長い間、JR五郎駅前でたばこ屋を営んでおられる三瀬ツタヱさんが当時を思い出して寄稿されております。まことに悲しいお話なのですが、子を思う親の姿に大変胸を打たれましたので、ここに紹介をさせていただきます。
ツタヱさんは今年90才。二年前には、妙心寺の西片義保管長さまより米寿のお祝いをいただかれました。
趣味は花作り。大好きな花いじりをしている時は、何も考えず無心になり、心身が活き活きするそうです。
信心の念もたいそう厚く、「仏さまや神さまに恥じることのない真っ直ぐな道が大好き」とおっしゃるツタヱさん。やさしいご家族に囲まれながら、今もたばこ屋の店番をされている元気で明るい五郎の名物ばあちゃんです。
末筆ながら、戦争の犠牲になられた妙律禅童女 三瀬律子様(享年5才)のご冥福をお祈り申し上げます。
今も心凍る思い
三瀬ツタヱ(大正5年2月2日生)90才
私は内子に生まれ、23才の時に五郎に嫁いでまいりました。家は旧国鉄五郎駅前でタバコ屋を営んでおりました。
やがて戦争が始まり、夫は出征し満州で従軍しました。あとに残されたのは、幼い娘二人と祖母と私の四人です。
私はタバコ屋を守りながら、女手一つで日本通運の荷物の集配を仕切り、男になったり女になったりして働きづめに働き、病気をする暇もないほどのアッという間の九十年でした。
そんな人生の中で、今も忘れることができない悲しい出来事があります。
昭和20年3月19日午前8時30分頃のこと、アメリカ軍のグラマン戦闘機が突如として五郎駅を襲撃してきました。祖母と娘二人が朝食を食べていて、二女の律子(5歳)が機関銃創を負ったのです。その時のことが哀れで、不憫でなりません。
敵機は、交通の要所、五郎駅を襲撃してきたのですが、運悪く駅前に住む私の家の中に銃弾が飛び込み、我が子が犠牲になったのです。
「おかあちゃん痛いよ、痛いよ」と訴える娘を抱きかかえ、貨車に乗せてもらって八多喜のお医者さんへ急いだのですが、お医者さんはあいにくの留守。すぐさま長浜のお医者さんへと汽車に乗り込んだものの、空襲のため白滝で汽車が動かなくなりました。
娘は汽車の中で、「お父ちゃんに会いたい、お姉ちゃんに会いたい」と言って、家族みんなの名前を一人ひとり呼びながら、出血多量で死んでしまいました。
その後しばらくの間は、夜も家では眠れず、肱川ばたにリヤカーを出して、リヤカーの回りで寝起きしたのでした。
あれから60年が経ちましたが、私はあの時の娘の姿を、片時も忘れたときはございません。今も、当時を思い出すと、心が凍りつきそうです。
戦争は一瞬の内に幸せな家庭生活を奪い去ってしまいます。二度とこんな戦争が起こらないよう願いながら、毎日毎日、娘の位牌に手を合わせて拝んでいます。
合掌
** あとがき **
戦争......それは昨日まで何の憎しみも恨みもない人間同士が、ある日上官の命令一つで殺し合うことです。戦争により、双方の兵士のみならず、律子ちゃんのように罪の無い多くの人たちが巻き込まれ、銃や爆弾で殺されていきます。
お釈迦さまは、
「すべてのものは暴力におびえる。すべての生きものにとって命(いのち)は愛(いとお)しい。己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ」 (ダンマパダ130番)
と示されましたが、命を奪うことはどんな口実を作っても正当化されるものではありません。戦争は最大の罪であることを今一度、肝に銘ずべきです。
アメリカの9・11テロ以降、アフガニスタン攻撃やイラク戦争により多くの命が奪われました。結果としてフセイン政権は倒れましたが、今も恨みによる報復の戦いは一向にとどまる様相を呈しません。また、終戦から60年経ったにもかかわらず中国の反日デモは日毎にエスカレートするばかりです。
平和は、国境や民族を越えた願いのはずですが、なかなか実現しません。仏教徒である私たちはお釈迦さまが示されたこの実践の道を、心に据えて、世界の人々に訴えていきたいものです。
五葉 光鐵